しばらくパソコンを立ち上げられずにいた。
26日に内科の外来で疲れきって、その日から飲んでいる薬の副作用なのか、おなかの膨満感で苦しんでいる。そのうえ、うんこがでない。そして、相撲取りかハラミントゥ(妊婦)のように息があがってハアハアいうのだ。
27日は外科の外来だった。久しぶりに会った外科の先生方はあかるくて、ほっとした。10時半には帰宅できた。
27日は友人夫婦が石垣からでてくるついでに会いにきてくれることになっていた。前夜も友人が来る予定だったが、飛行機のトラブルとかで、夜10時半をまわってから、「今、空港についた」とう電話がきて、薬(新しい薬は睡眠薬の作用も強い)を飲んでしまった私は眠くて、結局会えなかった。この日も午後に友人からメールがきて、飛行機が遅れて、私に会いに行くのが遅くなるとのことだった。8時半出発予定が10時半に変更だったそうだ。
この日は石垣の四か字の豊年祭だった。島の青年会の友人が、登野城の旗頭の写真とオンプールの写真を送ってきてくれた。青空に登野城の旗頭が映えていた。そしてアーマーオンの前庭には紺地の着物に身つつんだおじさんたちが座っていた。実にかっこよかった。
豊年祭の石垣に思いを馳せているうちに寝てしまった。しばらくして友人から、「今から行きます」というメールがきた。場所はわかっているので、タクシーで来るという。私は待ちきれなくて、外に出て待った。友人夫婦は途中でタクシーを降りたらしく、なだらかな坂をゆっくり上ってきた。私は手をふりながら、近づいていった。正直いって、外をこんな風に歩いたのは初めてだった。友人がやっと私に気がついて(どこかの男の子だと思ったそうだ)、手をふりかえしてくれた時、涙がでて、子どものように泣いてしまった。めがねをとって、袖で顔をぬぐいながら、それでも鼻水をたらしている私にご主人は驚いたと思うが、何も言わなかった。最近、まったく感情のコントロールがきかない。もともと泣き味噌なのだが、今はところかまわず、泣いてしまう。それも激しく。
友人はその朝作ったという豊年祭のカーサもちをもってきてくれた。そしてずっと食べたかった八重山そばも…。
それから一緒に活動している八重山探検隊が、今回の南山舎の「やいまガイドブック」に、これまでまとめた子ども用の資料を短くまとめなおして載せるという仕事をもらっていたのだが、、その「やいまガイドブック」も持って来てくれた。写真が赤くなっていたのが残念だが、もしよかったら、探検隊の資料(井戸、豊年祭、八重山の星)見てもらえるとうれしい…。
その日の夜遅く、桃太郎青年が、カーサもちの写真を送ってくれた。私が豊年祭を好きなことを知っていて、少しでも豊年祭の空気を伝えてくれようとして写メールを送ってきてくれたのだと思う。。
翌日も、3人の友人が豊年祭の写真を送ってきてくれた。それから初めてテレビ電話をした。友人がマイツバオン近くで農高生が踊っているところとか、アヒャー綱を中継してくれたのだ。一緒にテレビ電話を覗いていた姉も感激していた。ツナノミンは電池切れだったらしく、中継はとぎれたが、Nちゃん本当にありがとう。とても嬉しかったよ。そして、夜遅く…。他の友人からミヤトリオンの写真が送られてきた。実は私が豊年祭で一番好きなシーンなのだ。
字石垣と登野城は兄弟村で、マイツバから旗頭が自分の村に戻るとき、登野城は字石垣のミヤトリオンでご挨拶をする。私はなんでか、そこに来るとジーンと胸が熱くなる。前に聞いた話しだが、登野城がミヤトリオンを辞して登野城に帰るとき、字石垣の旗頭が送っていく、途中まで来ると、今度は登野城の旗頭が、村に戻る字石垣の旗頭を送っていく、そして、今度はまた字石垣の旗頭が登野城を送り…。昔は朝方まで旗頭が離れがたい恋人どおしのように送り、送り返し…だったそうだ。今はどうかな?でもその話を聞いてから、登野城の旗頭がアーマーオンに帰りついてガーリーをするまでの時間が好きになったのだ。
Aさん、ありがとう。豊年祭の余韻を感じることできたよ。
3日もあけると書くことが多くなってしまう。
今日もおなかがはって苦しいのだが、ちょっと前から少し楽になったので、更新することにした。
明日から、入院。また携帯からの投稿になってしまうので。
8月の始まりとともに、二回目の抗がん剤の治療が始まる。
「調子はどう?」って聞かれると、「よくなっているよ」って答えている。
手術前に比べると、調子はよくなっている。でも急に疲れたり、息がきれたりする。眠くなったり、腰や背中に痛みがでたり。お世話になった方や、今現在お世話になっている人に手紙を書こうと思っても、気力がでない。机の前に座って、しばらく考えて、また横になる。次回退院して家に戻ったら、お手紙がかけるくらい元気になっていたい。